生命って遺伝子の…道具?

生きとし生けるものの大元が何であるかを考えた場合、それは核酸、すなわちDNAであると考えられる。
ドーキンス利己的な遺伝子ではないが、生体は遺伝子の機能であると考えられる。
その遺伝子の発現の結果として、自死アポトーシス)というものがある。
カエルが成体になる時にシッポがなくなったり、秋に落葉樹の葉の根元が切れたりするといった、引き算の成長・適応を引き起こす、多細胞生物に特有な現象である。

また、昆虫の一部には自らそのものの遺伝子を後世に残す事よりも、妹の遺伝子を後世に残すようにプログラムされている種も存在する。
具体的には蟻や蜂などの大型の巣という社会を持つ昆虫たちである。

人間が自らの遺伝子にアポトーシスの発現条件を持っていても不思議ではないし、蟻や蜂以上の社会性を持っているとしてもおかしくはない。
そうなった時に考えられるのが、人類自らの過剰な繁栄に依拠して遺伝子の発現による自殺や無気力、異性(性別関係ない場合もあるが)との没交渉が起きている可能性である。
もちろん、検証には多大(過ぎて不可能)な障害が存在するため仮説の域を出ないのだが、我々を苦しめる精神疾患はこうした社会的アポトーシスの一部なのではないだろうか?
だとするなら若者から結婚・子育願望が希薄になるのは当然という帰結ができ、帰納的な傍証にもなりうるだろう。
少し話が横にそれるが、自殺と文化の成熟度を関連付けた書籍は1897年に既にエミール・デュルケムが記している。
これを発展させてもう少しこの大変な社会問題に繋げることはできないのだろうか。
枝葉のような年金や育児補助制度の給付などをピックアップするよりも、社会をどう構築するか、文化の成熟をどう方向付けるべきか、それに真っ当な理念を持って起きている社会問題に対処していくべきであると思えてならない。
生命の意味とは何者なのかもう一度問うてみる必要があるのだ。